「世界」に対して言いたいこと

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ある意味でブログを書き続けているということは、

何かしら「世界」に対して言いたいことがあるからなのだろう。

 

それは収益を目的としていたとしても変わらない。

 

本質的に人は誰かに認めてもらうために、

誰かと繋がるために、

居場所を増やすために、

自らの意思で何かを発信するのだ。

 

だから「満たされたり」あるいは「忙殺されていたり」して、

「世界」に対して言いたいことが枯渇してしまうと、発信の意欲は下がっていく。

 

そうやって更新の頻度は減っていき、

やがて消えていく。

 

ブログを更新するために更新し続けていても、

長くは続かないのだ。

どこかブログを続けることが義務感になってきたら、

それは「終わりの始まり」なのかもしれない。

 

私は「書きたいこと」があるから書き続けてきた。

 

今は変化の最中にいて心が落ち着かないながらも、

それはそれで書きたいことは浮かんでくる。

 

だけれども、メモをとっていて、

そこから記事として膨らまそうとするけれど、

どうもその作業が捗らない。

 

今までは書き出したらそれなりのものにはまとめられた。

あとはそれを何度かブラッシュアップして投稿する。

場合によっては手を加えずに投稿する。

そんな調子で続けてきた。

 

「世界」に対して言いたいことはあるけれど、

それを文章にまとめる気力が足りない。

それが今の私の状況なのだろう。

 

転職前の私は余裕があったのだ。

思考のリソースを個人的なものに割いて、

逆に停滞感にばかり目を向けることで、

「満たされない自分」というものがどんどん大きくなっていった。

 

それに耐えられなくなったものだから、

何かしらの形で先に進みたいと願い一歩を踏み出した。

慣れない環境に身を置くことで余裕はなくなった。

 

ちょうどいい刺激とはいかずに、

なかなか刺激的な日々を送っている。

 

記事にならないメモは溜まっていく。

「世界」に対して言いたいことがあっても、

それを文章にする気力が足りないという経験をした。

 

そうやって埋もれていく声にならない声、

世の中にはそういうものが溢れているのだろう。

 

家事や育児に勤しみながら仕事までしている人、

全てに全力というわけにはいかないからどこかに折り合いをつけていたり、

生活の大半を仕事に費やして家に帰ったら寝るだけの人がいたり、

 

「満たされない」と感じるだけの余裕、

もしかしたらそれは「創造性」を育む温床なのかもしれない。

 

心にゆとりがなければ、

何か芸術的なものは生み出せない。

 

何かを美しいと感じたり、

何かを儚いと感じたり、

周りの変化に心を動かされるだけの余裕、

 

そういうものの絶対量が、

世の中から減っているのかな。

 

「創造性」が埋もれていく。

これをどうにかすることがAIの使命なのかもしれない。

 

世界はどのように進んでいくのだろうか。

人はどこへ進んでいくのだろうか。

 

「世界」に対して言いたいことは、

そこかしこに埋もれている。