私はスーツのジャケットを着出したけど、いまだにワイシャツだけの人も目立つ。
カーディガンを着る人もいれば着ない人もいる。
今は、思い思いの服装を楽しむ時期なのかもしれない。
男ならば、基本的にはスーツという決まった仕事着があるから、まだ選択肢は少ない。
しかし、女性は色々と大変だ。
夏もの、秋もの、冬もの、選択肢は無数にある。
流石にコートを着ている人はほとんどいないけれど、先日はダウンジャケットを着ている人もいたから、一概に無しとも言えないのかもしれない。
着る物によっても評価される。
身だしなみを整えることもまた、評価対象となるのだ。
何事も隙なく、身なりも仕上げて過ごさなければならない社会は、なんとも窮屈だと感じる。
信念を持っている領域の他は、多数派にとどまることが目的であることがほとんどだ。
「どうでも良い」と思っていることほど、多数派の枠に収まるように努力しなければならない。
なんとも逆説的だ。
興味のないことに努力しなければ生きづらい環境が待っている。
私たちは効率よく自分のしたいことに使う時間を確保するために、興味のないことに時間を割いているといえるのだ。
「多様性」が叫ばれるようになった。
しかし、それは「多様性を叫ぶこと」が多数派になったからだ。
本当の意味で人の意識が変わって、多様性に対する寛容さが市民権を得たわけではない。
一線が引かれていて、そこからはみ出さない範囲での多様性は認めるけれど、そこを逸脱するような多様性は嫌悪の対象となる。
その一線を見極める能力の低い人は、「発達障害」であると一括りにされて、当事者以外は、その濃淡に興味を示すことはない。
個性って色々あるのにね。
わかりやすいラベル付けで理解したつもりになることで安心する。
だいぶ話が逸れた。
着る物に困るという話だ。
暑さ寒さを感じるのもまた個性。
切るものを変えることが面倒だから、薄着のまま過ごしたり、これから先は寒くなる一方であることを見越して、冬服に変える人もいる。
服の選び方ひとつ取っても、個体差があるのだ。
どれが正解なのか。どれが多数派なのか。
どれを選択すれば、集団に受け入れられるのか。
そんなことばかりに時間を使うことはもったいない。
しかし、一定の時間を使わないと、無駄に煩わしい環境に身を置くことになり、クオリティオブライフが下がることも否定できない。
「普通」を目指して、適度に気を遣いながら服装を決める。
面倒だけど、おそらくそれが無難なのだろう。