今の若者たちは、失敗することを過剰に恐れている。
情報はオンラインでいくらでも手に入るから、未経験の方でも失敗しないための手順が世の中に溢れている。
旧世代の私たちは、とにかく挑戦して失敗から学んで成長するということがセオリーだったが、どうやらそれが変わりつつあるようだ。
失敗することに対する恥じらいが大きくなったのだろうか。
それとも、失敗すること自体のリスクが上がったのだろうか。
後者のように思う。
SNS全盛の時代。
今の時代は、誰もが高性能カメラを持ち歩く記者だ。
もし公共の場で粗相をしようものならば、それが一瞬で全世界に拡散されるリスクがある。
そうなったら「人生終わり」
そう言う恐怖感を、今の若者は物心ついた時から肌で感じているのかもしれない。
学校内でのいじめは陰湿なものとなった。
大人にはわからないところで情報共有をして、集団で被害者を追い詰める。
自分が被害者側にならないように立ち回らなければ、学校生活は簡単に「終わる」のだ。
社会に出てからも同じ。
社内でコミュニケーションツールを使用することが当たり前になったから、クローズドな個人間のやり取りは簡単に行えるようになった。
もちろん、あからさまな誹謗中傷を社内ツールで行うことはないだろうけれども、不信感や不満を吐露する機会は、昔と比べたら格段に増えただろう。
今の社会は、多様性を謳う監視社会なのだ。
お互いがお互いを監視して、社会的道理に反していないか。
集団の思考から逸脱した人間がいないか、と情報共有し合う。
表向きは「多様性を認めよう」と働きかけているが、あくまでもその「多様性」は、自分が認めることのできる範囲内だけ。
そこから少しでも逸脱した途端に、周りの全部が敵になるのだ。
だから多くの若者は、個性を発揮したがりながらも、リスクを取ることを避けるようになる。
そういうことなのかもしれない。
人間の本質は陰湿なのだろうか。
ホモ・サピエンスは他の人類と比べて、周りと協調することで過酷な環境を生き抜いてきた。
だからこそ、コミュニティの存続を大事にする。
今も昔も変わらない。
そこに害をなすものは敵なのだ。
そんな我々に本当の意味で「多様性」を認めることはできるのだろうか。
今の若者たちは、とても複雑な時代に人格形成をして、その価値観をもとに生きている。
足場の不安定な社会で、足を踏み外さないように必死で生きているのだろうか。