そんな当たり前のことも忘れてしまう。
「怒り」は自分への期待の裏返し、
信念だとか、
自尊心だとか、
そういうものを傷つけられて生じるもの、
そういうものたちは、
人生を彩る上では欠かせないもの、
スパイスの役割を果たしてくれる。
だけれども逆に考えれば、
そういう物を持たなければ、
怒りは生じない。
もしくは、
誰にも傷つけられないくらいに、
確固たるものであれば、
「怒り」どころか「慈悲」が生じる。
「あわれだな」って、
傷つけられたからって、
相手や他の誰かを傷つける。
それって自分が未熟だったこと、
相手の足りないところばかりに目を向けて、
自分の足りないところにはモザイクでもかけて、
都合が悪いからとりあえず隠してみる。
「とりあえず局部は隠しています」って、
AVの編集でもしているのかな。
それでは怒りの矛先と同じように、
相手からもその矛先を向けられても仕方がない。
「肝心なところが見えないじゃないか」って、
そうやって戦が始まるのだ。
「見えないところを見せろ」って、
相手のことを知りたいのに、
大事なところは見えないじゃないかって、
「大事なところを見せろ」って、
断っておくけれど「心」の話、
「本心がわからない」
だから相手を恐れる。
これ以上は傷付きたくなんてないから、
だから避けるようになる。
どちらも未熟だから、
「怒り」と「怒り」をぶつけ合って、
どんどん感情ばかりが先に進んでしまって、
どこかで爆発してしまう。
そうなると修復は難しい。
どちらかが「自分の弱さ」と向き合うしかないのだ。
どんどん醜くなる。
自分も相手も、
どんどんどんどん醜くなって、
周りには醜い人ばかりが寄ってくるようになる。
どんどんどんどん醜くなって、
やがて醜いってことにも気が付かなくなる。
そうなってしまったら、
自力での復活はもはや見込めない。
救いの手を差し伸べてくれる誰かに、
その救いの手にすがるしかない。
「人を呪わば穴二つ」
穴を掘っていることに気がついたら、
シャベルを放り投げて、
その両手の震えをジッと見て、
その怯えや恐怖の正体と向き合うのだ。
穴を掘り終えてしまったら、
憎しみの引力に引き寄せられて、
「もうやるしかない」
そうなってしまうよ。
鏡を見て、
醜さと向き合って、
それを受け入れて、
どこまで行っても、
憎しみの果てに、
幸せなんてあるはずがないのだから、