私は割と他人の「好み」に寛容なほうだと思う。
斬新な発想を与えてくれるので、
危害を加えられさえしなければ、
「おかしな人」のほうが好ましいくらいだ。
だけれども「男同士」
いわゆる「ボーイズラブ(BL)」というやつ、
それを好きな人がどうこうというわけではないけれど、
私自身どうにも受け付けないのだ。
それは私が男だからだろうか。
逆に「女同士」
いわゆる「百合」というものには、
どこか興味をそそられるものがある。
それは「当事者意識」を感じられないからだろうか。
最近タレントの方が「女同士」で合意なく手を出して、
PTSDを患った相手の方に訴えられるという事件が起きたようだ。
おそらく「当事者意識」を感じやすい女性からすれば、
「百合」も同じく嫌悪するものなのだろう。
それは「種の保存」という本能からくる、
遺伝子の指令なのだろうか。
それならば男である私も「百合」に対して、
同じように嫌悪が生じるはずだ。
何度か書いているけれども、
私はたまたま「女性が好きな男」というだけで、
巡り合わせによっては違っていたかもしれない。
「尊敬」が「好意」に変わる。
そういう経験は誰しも少なからずあるだろう。
「自分が女だったらこいつのことを好きになっただろうな」
私も小学生の頃にそう思った友人がいた。
だから「同性を好きになる」という感覚は理解できるけれど、
「行為」となると話は別なのだ。
冷静に考えてみると不思議な話だ。
「好意」の先に「行為」がある。
だいぶ冷めたとはいえ「純愛主義者」の私だ。
「好意」のない「行為」に対する嫌悪はあるはず、
だけれども、
「好意」があっても同性同士の「行為」
いや「女同士」は受け入れられるから「男同士」だけか。
それだけは受け入れることができない。
仮説を立てるならば、
「自己存在を脅かされることに対する恐れ」
私の中のそういう感情が「男同士」の嫌悪につながる。
「ボーイズラブ」が広く理解されることにより、
ヘテロセクシャルである私の自己存在が否定された気になる。
人の怒りの矛先は、
大抵「自己存在を脅かすもの」へと向かう。
「世の中こうあるべき」だって、
そういう私の積み重ねてきた価値観を、
覆されようとしているのかも知れない。
さらにその考えが広まることで、
男である私に直接的な危害が及ぶかも知れない。
私はそれを恐れているのだろう。
だから私は「ボーイズラブ」に嫌悪を感じる。
そう考えると合点がいく。
もしも私が女だったなら、
これが逆になるのだろうか。
「BL」はいいけれど「百合」はダメ、
「百合」への嫌悪感は強いのだろうか。
BL好きの腐女子さんに聞いてみたいものだ。
そして「LGBT」の方が、
自分の所属するチームの描写を見た場合は、
「自己存在を肯定された気持ち」になるのだろうか。
さらには、
好んでそれらの作品に触れているのだろうか。
「男チーム」「女チーム」に分かれて、
チーム対抗戦に持ち込むからおかしなことになる。
そう結論付けたつもりだったけれど、
結局、私は「ジェンダー」にこだわっているのだ。
まだまだ興味は尽きない。
興味のあるうちはこだわっていればいい。
それも生きるための糧になるのだから、