妻と一緒に住んで感じること。
男女の体の構造が違うことを感じるわかりやすい事例が、トイレットペーパーの減りが早いということだ。
1人で住んでいた時と比較して、驚くくらいの速さで減っていく。
それも当たり前のことなのだろう。
男は大の時にしかトイレットペーパーを使わないけれど、女性は小の時にも使う。
そして、小の回数は大の数倍はある。
それはトイレットペーパーの減りが恐ろしく早くなるわけだ。
妻と一緒に生活を始めることで、私の中で神秘のヴェールを纏っていた「女性」という理想で固められた生き物の全貌があらわになる。
ブラジャーが床に落ちていることもあれば、だらしない格好で寝そべっていることもある。
外では割とちゃんとした格好をする妻だけれども、いつも家でまで、ちゃんとしているわけではないのだ。
体の構造の違いはあれど、男も女も生活は大きく変わらない。
男女の違いよりも、性格による個人差の方が何倍も大きな差となることを、私は結婚生活を通して理解した。
男チームと女チーム。
世界各地でところ構わず戦争を繰り広げている両チームだが、そのチーム分け自体が時代遅れだという勢力が力を伸ばしてきた。
これから先の時代は、そのチーム分けが曖昧になっていくのかもしれない。
そうすることで、少子化は解消されるのだろうか。
それともますます進むのだろうか。
人類は、性差を自認することで安易に交わることを避けるようになった。
そして「恥じらい」が生まれた。
もしも、これから先の未来は、その「恥じらい」が取り払われるようになれば、政治家が頭を悩ませて考えている政策なんか必要ないくらいに、先進国の少子化が改善されるのだろうか。
論点がよくわからなくなってきたな。
話を戻すと、私は妻と生活をともにすることで、男女の差など大きなものではないことを学んだ。
それとともに「恥じらい」というものが薄れていった。
世界的に男女というチーム分けが曖昧なものになると、世界的に「恥じらい」が薄れていき、その結果として、少子化がどうなるのか気になっている。
今回書きたかったことは、そんなところだろうか。
皆が変に男女というものを意識し過ぎている。
だからおかしなことになる。
そういうことなのかもしれない。
男女の役割に差が生じにくくなった先、
私たち、いや、若い世代はジェンダー意識をどのように醸成していくのだろうか。