先日記事にした『創作』の中の1曲だ。
大成建設のCMにも起用されている曲、
ここ最近この曲が私の頭の中で止まらない。
思わせぶりなMVから感じる印象で恋愛ソングかと思いきや、
これは「春への慕情」を表現した曲なのではないか。
「言葉では表しがたいものを言葉にする」
そんな「ウルトラC」
それに果敢に挑み、
見事に成功しているのがこの曲だ。
じっくり読むと鳥肌が立つくらいに美しい詩、
歌詞と言うよりも、それ自体が芸術として成立している。
加えて韻の踏み方やサビでの「おっくう」の使い方なんて脱帽だ。
恐ろしいほどのセンス、
聞けば聞くほどに深みを増していって、
どんどん虜になっていく。
あくまでも私の解釈だけれども、
どこか異性の存在を匂わせながらも、
この曲で主体者が思いを寄る相手は「春」なのではないか。
この歌詞は「春に恋をする」と言う表現に思える。
春のうちにしか会えない木陰のベンチで会う「相手」
その相手とのすれ違い。
そうこうしているうちに「春」は終わってしまう。
何となくそういう表現に見えるけれど、
その「相手」の存在は「匂わせる」だけ、
「相手」に対する慕情と言うよりも、
「相手と過ごすこの瞬間」に対する慕情、
即ち、そのメタファーが「春」なのだ。
「はらり、僕らもう息も忘れて瞬きさえ億劫」
「息を呑むような美しさ」
そういう表現があるけれども、
これも「言葉では表しがたいものを言葉にした言葉」
それと同じような表現を、
1曲を通して行っているんじゃないのかな。
私にはこの曲を、
単に「人との別れ」を表す曲とは思えない。
「この幸せな瞬間との別れ」
そう捉えたほうがしっくりくる。
「今日さえ明日過去に変わる。ただ風を待つ」
諸行無常、
「この瞬間」はいつまでも続かないのだ。
だから「幸せな今」
それに対する名残惜しさを感じながらも、
失うことに抗いながらも、
それを受け入れるまでの過程を描いている。
「人が生きる」ということは、
ある意味ではその繰り返しなのかもしれない。
そして「生きる」ということさえも過ぎ去っていく。
どんなに望んでも、
「幸せなこの瞬間」を誰かが奪っていくのだ。
それは人知を超えた大いなる存在なのかもしれない。
「花散らせ今吹くこの嵐はまさに春泥棒」
『春泥棒』とは神様のことなのかな。
人は、奪われても奪われても、
それを受け入れて、糧にして、
「終わり」に向けて進んでいく。
力強さを増して、
進んでいくのだ。
ヨルシカ『春泥棒』
「美しさ」に秘められた「残酷さ」
なんともヨルシカらしさの詰まった名曲だ。