ヨルシカ『春泥棒』が頭の中でループしている

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先日記事にした『創作』の中の1曲だ。

 

tureture30.hatenadiary.jp

 

大成建設のCMにも起用されている曲、

ここ最近この曲が私の頭の中で止まらない。


思わせぶりなMVから感じる印象で恋愛ソングかと思いきや、

これは「春への慕情」を表現した曲なのではないか。


「言葉では表しがたいものを言葉にする」


そんな「ウルトラC


それに果敢に挑み、

見事に成功しているのがこの曲だ。


じっくり読むと鳥肌が立つくらいに美しい詩、

歌詞と言うよりも、それ自体が芸術として成立している。

加えて韻の踏み方やサビでの「おっくう」の使い方なんて脱帽だ。


恐ろしいほどのセンス、

聞けば聞くほどに深みを増していって、

どんどん虜になっていく。


あくまでも私の解釈だけれども、

どこか異性の存在を匂わせながらも、

この曲で主体者が思いを寄る相手は「春」なのではないか。


この歌詞は「春に恋をする」と言う表現に思える。


春のうちにしか会えない木陰のベンチで会う「相手」

その相手とのすれ違い。

そうこうしているうちに「春」は終わってしまう。


何となくそういう表現に見えるけれど、

その「相手」の存在は「匂わせる」だけ、


「相手」に対する慕情と言うよりも、

「相手と過ごすこの瞬間」に対する慕情、


即ち、そのメタファーが「春」なのだ。

「はらり、僕らもう息も忘れて瞬きさえ億劫」

「息を呑むような美しさ」


そういう表現があるけれども、

これも「言葉では表しがたいものを言葉にした言葉」


それと同じような表現を、

1曲を通して行っているんじゃないのかな。


私にはこの曲を、

単に「人との別れ」を表す曲とは思えない。


「この幸せな瞬間との別れ」

そう捉えたほうがしっくりくる。


「今日さえ明日過去に変わる。ただ風を待つ」


諸行無常

「この瞬間」はいつまでも続かないのだ。


だから「幸せな今」


それに対する名残惜しさを感じながらも、

失うことに抗いながらも、

それを受け入れるまでの過程を描いている。


「人が生きる」ということは、

ある意味ではその繰り返しなのかもしれない。


そして「生きる」ということさえも過ぎ去っていく。


どんなに望んでも、

「幸せなこの瞬間」を誰かが奪っていくのだ。

それは人知を超えた大いなる存在なのかもしれない。


「花散らせ今吹くこの嵐はまさに春泥棒」

『春泥棒』とは神様のことなのかな。


人は、奪われても奪われても、

それを受け入れて、糧にして、

「終わり」に向けて進んでいく。


力強さを増して、

進んでいくのだ。


ヨルシカ『春泥棒』


「美しさ」に秘められた「残酷さ」

なんともヨルシカらしさの詰まった名曲だ。